「人生の夏」の余韻は日常に。渋谷には二元論で語れない懐の深さがある|シブヤ文化漂流記
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橋本徹
渋谷の文化をたゆたう
前回登場したWACK WACK RHYTHM BAND・山下洋さんからの紹介を受けてお話を伺ったのは、編集者・選曲家・DJの橋本徹さん。1999年に公園通りにオープンした「カフェ・アプレミディ」の店主であり、日本を代表する革新的なコンピレーション・シリーズ「フリー・ソウル」の生みの親。世界一レコードの集まる街だった1990年代の渋谷で、熱狂の中心にいた人物です。
INDEX
ハンズ半径100メートル、究極の職住接近
——長野出身の山下さんは「初めて渋谷に来たときはBEAMSへ行くだけでお祭りだった」と憧れを語っていました。橋本さんはもともと東京の出身。渋谷はどのような存在だったのでしょうか。
僕は世田谷区の駒沢生まれ、駒沢育ち。物心ついた頃から、親に連れて行かれる街と言えば渋谷でした。渋谷は駒沢にとってのターミナル駅。どこへ出かけるにも寄ることになる。だから子どもの頃から友達と遊びに行くのも当然、渋谷。東急文化会館の中にあった五島プラネタリウムとかに行っていた記憶がありますね。
4年生になって少年野球のチームに入ったので、その後は土日は練習か試合かという感じになっちゃいましたけど。再び渋谷との縁が深くなるのは高校生になってから。17歳くらいから音楽が好きになり、レコードに興味を持つようになって。ここから音楽好きとしての渋谷との関わりが増えていきます。
——音楽に傾倒していったきっかけは。
それまでもラジオで音楽を聴いたりはしてたんだけども、高校生になると、FM番組で聞いて気に入ったもののレコードを手に入れたいと思うようになって。具体的には、NHK-FMの佐野元春さんの「サウンドストリート」。あるいはピーター・バラカンさんのFM番組や彼がTBSでやっていた「ザ・ポッパーズMTV」でMVを見て。翌日の掃除の時間なんかにクラスの音楽好き3、4人で「あの曲、良かったね」みたいな話をして、小遣いが限られているから分担して買ったりね。「ミュージック・マガジン」を読んでいるような、それまでであれば仲良くなっていなかったかもしれないタイプの友達もできて、文化系と体育会系を行ったり来たりして過ごしていましたね。
——高校生にしてすでに「渋谷=音楽の街」に。
大学生になってからは、一層。バブル崩壊前で、家庭教師のアルバイトをすると時給3000円もらえるような時代だったんで。バイト代が入ると、まず行くのがレコード屋。閉店まで一日中サクサクやってました。今だったら腰が痛くてスルーしてしまうような、エサ箱の隅々までチェックしていましたね。とにかくレコード屋で過ごす時間が増えたので、必然的に渋谷にいることが多かったです。同じ理由で下北沢や新宿にもよく行ってました。あとはパイドパイパーハウスのあった南青山とか。訪れるのは、決まってレコード屋のある街。旅行に関してもそう。とりあえずロンドン、そしてパリ。そういう発想でしたよね。
——レコードありき。
だから僕の場合は、山下くんのように渋谷に特別思い入れがあって、能動的に関係を築いていったわけではないんですよね。ただ単に便利だったという話で。たまたま生まれ育った街から近くて、20代以降はそこに住むことで、どこよりも近くでレコードを買えたことに感謝していますが、レコードが一番ある場所で暮らしてきたというだけなんですよ。
勤めていた出版社から独立した1993年の7月に宇田川町のシスコというレコード屋の向かいのマンションに引っ越しました。その頃はまだタワーレコードも宇田川町にありましたね。WAVEも2店舗あって、「渋谷系」のメッカと言われたHMVに、ダンス・ミュージック・レコードとかマンハッタンレコードとか、その後一世を風靡するようなレコードショップがたくさん出てきて。
ギネスブックに「世界で一番レコードショップの多い街」として登録されたくらい、東急ハンズの半径100m以内くらいにレコード屋が密集していた。自分の家もそこにあったら便利だなということで住み始めたのが、パラシオン渋谷というマンションでした。カフェ・アプレミディを始めてすぐに、公園通りの渋谷ホームズに引っ越しましたけどね。
——徹底しています。
そこで音楽にまつわる編集や執筆をしたり、レコード会社から依頼を受けて再発企画の監修をしたり、コンピレーションアルバムの選曲をしたりという仕事をしつつ、DJバー・インクスティックでの「Free Soul Underground」をはじめ、いくつかのクラブでDJをして生活をしていたわけです。
1996年4月からはタワーレコードのフリーマガジン「bounce」の編集長になるんですけど、その編集部も家から歩いて5分のところにありました。96年1月いっぱいでインクスティックが閉店したあとは、オルガンバーという場所でフリー・ソウルのDJパーティをやるようになって。その頃はもう、家から30秒のシスコでレコードを買って、オルガンバーでDJをして、朝方に1分で家に帰ってくるような生活。だからまあ、究極の職住接近というか。
——渋谷の街がまるで渡り廊下ですね。
うん、本当に。でもそれは僕に限った話じゃなくて。20代の音楽好きの若者たちがレコード袋を小脇に抱えて生き生きと宇田川町を闊歩していた、そういう時代だったと思いますね。
東京の空気が全国に届いた時代
——インクスティックは山下さんの話にも出てきました。当時を語るには外せない場所?
そうですね。まだ出版社に勤めていた90年末に、自分の好きな音楽や映画を紹介する「サバービア・スイート」というフリーペーパーを自費で作り始めて、CDショップや後に「渋谷系」と呼ばれるようなアーティストたちのライブで配布していたんです。そうしたらそれを見たDJの二見裕志さんが「この世界観でDJパーティを開いたら楽しいんじゃないか」と連絡をくれて。
それで最初のDJパーティをインクスティックでやったのが、1991年8月。ただ、その時点では僕はまだDJをしたことがなかったし、しようとも思っていなかった。だから1回目のパーティでは選曲だけして、あとはいろんなサバービアらしいテーマに沿ってピチカート・ファイヴの小西康陽さんらとおしゃべりすることにして。そこにフリッパーズ・ギターの二人も遊びに来たがっていると友人から連絡をもらったから、ゲストとして出演してもらったりね。
その夜のことは若杉実さんの『渋谷系』という本に詳しく書かれているから、読んでもらうといいんじゃないかな。「渋谷系というものを実感した、唯一にして最大の夜だった」みたいなことが書かれていますよ。
——二見さんのいう「サバービア・スイートの世界観」とは。
当時のクラブって、今よりもっと血の気の多い場所だったというか。体育会系的な上下関係も厳しかったし、水商売的な不条理も多かったんですよ。「サバービア・スイートの世界観」はその対極にある、ソフトで、スマートで、スウィートで、ソフィスティケイトされたもの、ということだったんじゃないかな。テイストとしてはね。
で、その本質は何かと言うと、過去に埋もれてしまった作品の中にも、現代の趣味やセンス、価値観を通してみると、新たな輝きを放って見えるものがあるということ。そうした音楽やレコード、カルチャーにスポットを当てるというのが、僕の意図していたことでした。1994年に立ち上げた、グルーヴィー&メロウな70年代ソウル周辺を中心としたコンピレーション「フリー・ソウル」でやろうとしたことも基本的には同じことですね。埋もれていたもの、あまり知られていないものの中から自分の好きなものを見つけ出し、光を当て、分かち合って楽しむ。それが「サバービア・スイート」や「フリー・ソウル」の本質だと思ってます。
——「フリー・ソウル」はその後30年続くのだから驚きです。
まずは当時の時代の空気と合っていたということでしょうね。1994年は奇しくも「渋谷系」と呼ばれるアーティストたちが全国区になった年なんですよ。オリジナル・ラヴの『風の歌を聴け』というアルバムがオリコンで初登場1位を獲得し、小沢健二の『LIFE』という、やはり70年代ソウル周辺を下敷きにしたアルバムが異例のロングヒットを記録して。そうやって東京の空気感が日本全国に広がっていく時代だったんですよね。
「フリー・ソウル」がスタートしたのは、そんな94年の春。だから従来のブラックミュージックやソウルミュージック好きだけじゃなくて、「渋谷系」と呼ばれるアーティストを聴いているような邦楽リスナーや、ジャミロクワイやブラン・ニュー・ヘヴィーズに代表されるUKソウル〜アシッドジャズを、クラブではなくJ-WAVEで聴いているような一般リスナーも含めて、シーンが耕されていったんです。そうでなければ洋楽のコンピレーション、しかも旧譜カタログの70年代ソウルミュージック周辺のコンピレーションが、HMV渋谷の邦楽売り場に置かれて、セールス1位を記録するようなことは起きなかったでしょうね。
——そもそもなぜ邦楽の売り場に洋楽のコンピレーションが置かれていたのでしょうか。
それは太田さんだから。山下くんが話していたけど、「渋谷系」は太田系だったんですよ。
——やはり太田さん。
それには前夜があって。1992年末に『黄金の七人』というイタリア映画のサントラ盤のリイシューをサバービアで手がけたんです。そのきっかけは僕や小西康陽さんがこのテーマ曲を大好きで、TOKYO FMでやっていた「Suburbia’s Party」という選曲番組のオープニングテーマだったこともあったんですが、話題を呼んだ理由はそれだけではなくて、フリッパーズ・ギターの曲でもろに引用されていたんですよ。そうしたらイタリア映画のサントラであるにも関わらず、太田さんは自分が担当する邦楽売り場に置き始めて。僕らが遊んでいた渋谷や下北沢の小箱クラブに来ていて、HMV渋谷でコーネリアスなどを買いに来るようなお客さんなら、きっと一緒に欲しくなるに違いないと考えたんでしょうね。
——好きなアーティストを形作った「元ネタ」を含めて見せるというのは、確かにファンの心をくすぐりそうです。
そう、それを皮切りに、僕のコンピレーションや、サバービアが手がけた単体アーティストのリイシューなんかも全部邦楽売り場に置いてくれるようになって。その中には『ロジャー・ニコルス&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ』という、1993年の渋谷で空前の大ヒットを記録したソフトロックの金字塔のようなアルバムも含まれてました。これはピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターのファンが当時こぞって手に入れようとしたものなんですけど、そういったムーブメントの真打ちとして登場したのが「フリー・ソウル」だったんです。
だからこのシリーズの初期においては、ブラックミュージックのリスナーよりも邦楽アーティストのリスナーの方がメインだったと言えるかもしれない。もちろん、人数的に本当にメインだったかはわからないけど、少なくともイメージ的には、趣味や行動範囲、精神性においてシンパシーを抱ける、フレンドリーな関係を築ける印象がありました。
カフェ・アプレミディ、25年目の「収穫」
——カフェブームの火付け役となった「カフェ・アプレミディ」についても聞かせてください。
そうやって1990年代をずっと走り続けてきたんですけど、99年4月に「bounce」の編集長を退任したことでひと息入れる感じになって。しばらくは渋谷の街をぶらぶらして過ごしていたんです。次はどんなことをしようかとぼんやり考えながら、代々木公園を散歩したりして。で、あるときふと気づいたんですよ。その頃の渋谷は商品量も情報量も世界一音楽の集まっている街なんだけど、そういう音楽を聴きながらゆっくりくつろいだり、友達や仲間と話せたりする場がないな、って。レコードショップやクラブはあるけれども、もっと日常に近い落ち着いたテンションやシチュエーションで音楽を楽しめる場があったらいい。それでカフェをやってみようと思って、99年11月にアプレミディを開いたんですよね。
——それまでは音楽は聴いて帰るもの、買って帰るものだった。
そうですね。あとは大音量で鳴っているところで踊ったりして楽しむものだった。僕自身の選曲としても、「フリー・ソウル」が人気になりすぎたことで盛り上がったり楽しく踊れたりというものばかりが求められるようになって、初期の「サバービア・スイート」で紹介していたような、心地よい気分やおしゃれな雰囲気を味わうタイプの音楽を選曲する機会がなくなってしまっていた。自分の好きなインテリアに囲まれて、自分の好きな仲間がスタッフとしていて、そこに同好のお客さまが来てくれる「部室」のような感覚の場所をイメージしてスタートしました。
実際、そういう音楽好きや、ある種のライフスタイルや共感できるセンスが好きな人たちの交流の場になっていった……んですけど、そこに物凄いカフェブームが到来して。ブームの常として、薄まったり拡散してしまったりする部分もありつつ、それが時間をかけて落ち着いて、25年かけて残るものは残ってという感じで、今に至っていますね。
——ファイヤー通りに場所を移転したが、渋谷で四半世紀。
あの頃は公園通りにここの1.5倍くらいあるスペースを構えていて、毎日行列ができて、開店前には取材が入ってという感じでした。パルコのアプレミディ・セレソン、公園ビルの4階のアプレミディ・グラン・クリュと5階のカフェ・アプレミディ。たくさんお店をやっていた頃からすると、今は本当にこじんまりと、慎ましやかにということではあるんですけど。分母を小さくしないと乗り切れない経済的事情もありましたからね。でも、それでも何か大切なものは残っていると思います。それが僕としては救いというか。小さいけれど、続けて良かったなと心の底から思ってます。
——今も店を続けている理由は。
お店を続けているというより、何か楽しいこと、面白いこと、意味のあることをしようと思ったらいつでも人が集まれる状態にしておきたいというニュアンスが強いんですよね。ぶっちゃけた話、休みの平日も含めて、毎日1万円以上の家賃が発生しているから厳しくてね。その分、他の仕事を頑張らないといけない。たとえば「usen for Cafe Apres-midi」というチャンネルがあって、株式会社USENから選曲料として継続的に収入を得ているから、なんとかこの場を維持できている。でも、そうやって続けてきたからこそ、今一番やりがいのある仕事だと思っているオファーもいただけたりするわけで。
——「やりがいを感じている仕事」というのは。
ジャーナルスタンダードなどを展開する株式会社ベイクルーズの「ACME Furniture」というインテリアブランドから、家具の共同開発やインテリアコーディネートなどのコラボプロジェクトのオファーをいただいて。実はそこのサブマネージャーが19歳の頃からアプレミディに来てくれていたみたいで。19歳と言えば、大人の入り口じゃないですか。そういう多感な時期に、この店を通じて音楽やインテリアに興味を持ってくれたらしいんです。
昨年、ジャーナルスタンダードとフリー・ソウルでアパレルコラボをした際に僕のインタビュー記事が出たんですけど、それを読んだ彼が「インテリアでもコラボがしたい」と話を持ちかけてくれたんですね。今は「音楽のある生活」をテーマに一緒にレコードボックスやレコードラックなどの家具を開発しつつ、アプレミディの25周年も記念したダブルネームのコンピレーション『Interior Music〜Cafe Apres-midi meets ACME Furniture」をリリースしました。
——素晴らしいですね。
僕はもともと音楽をただ紹介するというのではなく、日常のいろいろなことと結びつけて提案することをやりたいと思って30年間続けてきたんですね。インテリアもそうだし、カフェの飲食なんかもそう。というのも、僕は山下くんのようにギターは弾けないし、歌も歌えない。楽器はもちろん、機材もまったくわからない。ただレコードが好きなだけなんですよ。でも、そのレコードのある生活が幸せなものになったらいいなと思って、ずっとやってきました。
もっと言うなら、普通の生活を送っている人たちが、ちょっと素敵な日常を感じられたり、ふとしたきっかけで自分の感覚や趣味の世界が開かれる瞬間を大事にしたいと考えてやってきました。そういう意味では、インテリアと音楽のコラボ、センス的にもライフスタイル的にも共感できる「ACME Furniture」とのコラボで25周年を迎えられるというのは、アプレミディの一つの到達点とも言えるんじゃないかと思っています。ものすごい勢いでお金がなくなっていった時期もあったけど、頑張って続けてきて良かったなと。
——橋本さんの仕事が若者に大きな影響を与え、それが巡り巡って今、橋本さんの新たな仕事になっている。
ありがたいことです。節々でそういうハーベストみたいなことを感じられる人生は本当に恵まれてますよね。その舞台が、僕の場合はたまたま渋谷だったということです。だから最近は過去の自分に感謝しながら毎日を過ごせてますよ。サバービアにもフリー・ソウルにもカフェ・アプレミディにも、それを支えてくれた人や渋谷という街にも、感謝の思いが募ります。歳をとって自分が弱くなったから、なおさらです。
二元論では語れない、懐の深い街
——再開発などで、街の様相は大きく変わってきています。なにか思うことはありますか?
今日もここへ向かう道すがら、昔の景色を思い浮かべながら歩いてきましたよ。山下くんも「普通の町中華で飲むのが好きだった」と答えていたけれど、ハレの場としてではなく日常として通っていたのは、僕も個人店が多かった。そういうお店がなくなってしまったのはやはりすごく寂しいです。
2000年代半ばに東急文化会館がなくなるとき、当時渋谷を舞台に活躍していた人たちが駅の壁面や柱にお別れのコメントを寄せたことがあって。「あなたにとって渋谷とはなんですか」という質問が投げかけられて、その答えが渋谷のいろいろなところに張り出されたんですが、そのときの僕の回答が「人生の夏をすごした街です」というものだったんですよ。
振り返ると、奇しくもその頃までが、僕にとって人生や渋谷が輝いていた時期、自分と渋谷という街とがお互いに相乗効果を出しながら並走できた時代だったと自分では捉えてます。確かそのちょっと後くらいだったんじゃないかな、リーマン・ショックが起きたのは。それ以降、個人の飲食店やレコードショップはどんどんなくなっていってしまった。
それまでは渋谷に対して「アイラブユー」という感覚もありましたけど、正直に言えば、その後は「アイミスユー」。なくなっていくものが寂しい、愛おしいという心情ですよ。調子に乗って「人生の夏をすごした街です」なんてコメントを残してしまったばっかりに、その後は僕自身の人生も黄昏て、冬みたいな季節になっていきました。でもこの記事は「昔は良かった」ではなく、前向きなものにしたいわけでしょう?
——かつての渋谷を彩った文化が、形を変えつつもどのように今につながっているのかを知りたいし、描きたい。
僕も知りたいですし、そこに加わりたいですね。自分のわからないところで渋谷という街が変化していっているから、どのような形で文化の因子が受け継がれたり、新しい文化が生まれたりしているかは、僕のようなタイプからは見えづらくなってしまっているけど、そういうことが続いていたらいいなと思うし、きっと続いているんだろうと思いますよ。
——先ほどの「ACME Furniture」との話は文化の因子が受け継がれていることを確かに感じさせます。
今はむしろ駅近の大型商業施設や、大資本の中にいる人の方が、個人よりも面白いことができるような印象がありますね。僕らの頃は「インディペンデントでフリーランスでやっていくのがかっこいい」みたいなところがあったんだけど、今は長く国の首相だった者でさえフリーランスとフリーターの区別がついていないような時代だから。もしかしたら僕のように会社を飛び出すのではなく、中に居続けることで大きなこと、好きなことをやって、文化の因子を大切にしていくのが賢い時代なのかもしれない。
——形を変えても受け継がれていると思いたいです。
渋谷ストリームホテルの受付フロアには、FJDがデザインした僕のコンピのジャケットが飾ってあってね。そういうのを見るとやっぱり嬉しいですよ。この夏にはスクランブルスクエアの中のスペースでアンビエントのDJをやってほしいという依頼があったり。ヒカリエはオープン当初からずっと「usen for Cafe Aprez-midi」を流してくれているしね。
昔のように「渋谷といえば橋本徹でしょ」とか、「フリー・ソウル」「カフェ・アプレミディ」と思ってくれる人は少数派になってしまったと思いますけど、たまにそういうふうに声がかかったときは大切にしたいですね。そういう機会を一つひとつ大事にしてやっていくつもりです。再開発が進んだ今も、カルチャーを愛する人間や、若い人ならではの感性を大切にする場は残っているんじゃないかと思っています。
自分にとってのそういう場はアプレミディですけど、いろいろな人にとってそういう場が渋谷にあるといいですね。渋谷というのはそれくらいに懐の深い街、「昔は良かった」「今は……」という二元論では語れない街だと思うんですよ。僕はそういう渋谷のサバービア、すなわち郊外、はずれの片隅でこれからも自分らしくやっていく。これが今の正直な心情ですね。