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2024.08.30

それでも渋谷は音楽の街。レアグルーヴの遺伝子は今も息づく|シブヤ文化漂流記

渋谷の文化をたゆたう

「流行の発信地」として、長年日本のカルチャーシーンを牽引してきた渋谷。近年はその活力が薄れたという声も囁かれますが、この土地で芽吹いた文化の因子は、きっとどこかに残り続けているはず。本企画では、渋谷にゆかりのある人々の話を通じて、時代とともに変容してきた街の軌跡を辿っていきます。

第一回目のゲストは、1992年結成の渋谷発ファンクバンド・WACK WACK RHYTHM BANDのフロントマン・山下洋さん。渋谷に住み、働き、遊び、「渋谷系」と呼ばれてきた山下さんに、音楽の街・渋谷の昔と今を聞きました。

INDEX

BEAMSに行くだけでお祭りだった

取材場所は盟友・DJ CHINTAMさんが営む道玄坂のレコード店「BLOW UP」

——19歳で長野から上京。

山下  住まいは千葉だったけどね。大学があったから。でもすぐに嫌になって、3年生のときだったかな、池袋に引っ越して。そのころから楽しくなってきた。大学に行きながらバイトにも行っていて、次第にバイトがメインになっちゃって。原宿の無印良品。バンドもやり始めて、クラブにもいっぱい遊びに行くようになって。そうすると原宿とか渋谷が、自然と当たり前の場所になっていった。

で、バイトも渋谷のレコード屋でするようになって、どんどんどんどん。最終的には住むようになりましたね。宇田川町に住んでました。今「裏渋谷」とか言われるあたりの、もっと渋谷寄りなんだけど。

——千葉が嫌だったのはもっと遊びたいから?

山下  そうだね。遊びやすい場所に行きたかったかな。買い物もしたいしさ。千葉に住んでたころの週末は毎週、本当に毎週のように渋谷に買い物に来てた。まあ服が好きだったせいもあるかな。高校のときも、三つ上の兄がこっちにいたから、いろんな情報をくれてさ。そのころから憧れの街と言ったら渋谷。着ていた服が一番あるのは渋谷。渋谷に絶対来てました。

——最初に渋谷を訪れたのはいつか覚えてます?

山下  高校1年かなあ。BEAMSとか、ああいうところに行きたかった。長野なんかにもちょっとはあるけど、やっぱり豊かじゃないから。BEAMSに行くだけで、僕の中ではお祭りでした。はははははは。兄がBEAMSを教えてくれたから。そこから僕の方がどんどんいろんな方向に行っちゃうんだけど。音楽もだったね。きっかけはすべて兄。兄が歌謡曲も、フォークギターも教えてくれたけど、結局フォークギターも僕の方が上手くなっちゃって。

——初めて渋谷に来たときの印象は?

山下  「東京ってのはやっぱりなんでもあるんだなあ」って思いましたね。夏休みとか、兄が生活してた寮に泊めてもらって、勝手に買い物しに行ってた。やっぱり洋服、そのころはアイビールックが好きだったんで、スペイン坂とか、地図を見ながらね。

——VANとか?

山下  VAN!そうだ!中学のときに来てたんだ。中2だ、初めて原宿とか渋谷に行ったのは。VANが復活した年で、VAN SHOPに行った。お金がないからランドリーバッグ一個しか買えなかった。はははははは。ランドリーバッグはでも、憧れだったの。おっきなこういう、洗濯物を入れる袋なんだけど。青でね、鮮やかで。かっこよかったんですよ。

——当時はみんなアイビーファッションにハマっていた。

山下  80年代初頭は、プレッピーアイビー。その前はヘビーデューティっていうアイビー。僕はプレッピーアイビーに変わったころだったんじゃないかな。それがいまだに抜けないね。下手したらそのまんまってところもある。つたないガイドブックしかなくてさ、まだ。VANのお店もラフォーレの裏側にあったんですよ。迷いながら行って。懐かしいですね。

あとは道玄坂の、今は麗郷っていう中華屋があるあたりにも、古着屋がいっぱいあったんです。戦後の闇市みたいなのが残ってて。そこにね、アイビーの古着を売ってる店が結構あって。そこに行くのもめちゃくちゃ迷いましたね。だってわかんないよね、あんな細い道。

——中学生でも遊べる街だった?

山下  まあお昼くらいならね。夜は全然知らないけど。『POPEYE』とか読むとさ、渋谷の店ばっかり紹介されてましたから。

ロンドンか、渋谷か

——洋服から音楽へと切り替わっていくきっかけは? 当時の渋谷にはおそらくシスコのようなレコード屋さんもあったと思いますが。

山下  あったよね。高校くらいで行くようになったのかな。「パイド・パイパー・ハウス」ってレコード屋さんが青山にあったんだけど。長門さんのお店。そこに行って「難しいなー」とか思って。

——伝説のレコードショップと言われている。

山下  ちょっと洒落てるっていうか。いわゆるクラブミュージックとかじゃないんだよ。AORの、音楽通が聴くような音楽。あと、いわゆる昔のソフトロックと呼ばれるようなもの、そういうのも置いてたんですよ。全然知らないんだけどさ、高校生のころだから。

たとえばラヴィン・スプーンフルから派生したような音楽とか。あとブリティッシュロックみたいなのももちろんあったし。当時はブリティッシュロックが一番の基本だから。そういうののマニアックなのが、すごく。

——そういう音楽がイケてるものとして映った?

山下  田舎だとキンクスとフーを聴くだけでも変わりもんだったからね。中学のときはビートルズを聴くだけでも変わりもんだった。クラスでも4人くらいしかいなかったよ。だからすごく頑張って増やしたもん、ビートルズ仲間を。

——当時の渋谷の音楽は……

山下  すごかったんじゃない? こっちにいた人はわかったと思うけど。まずレコード店、シスコとタワー(タワーレコード)があるだけですごいことだったんじゃないかな。

タワーは池袋にもあったけど。でも池袋のはあまり面白くなかったんだよね。渋谷の方が全然行きがいがあった気がする。安かったしねー。バーズのレコードが1100円くらいで売ってるんだ。再発版だけど。ドルが安かったというのもあって。僕は再発だろうとあまりこだわらない人間だったから。聴けるだけでも十分って感じで。

——通っていたレコード屋さんは?

山下  やっぱシスコ、タワー。で、そこからソウルミュージックにハマって。たまたまバイトし始めた「view records」っていうレコードショップがやたらマニアックだったんで、どんどんそっちの方に行っちゃった。そのお店がまた、渋谷だったんですよ。ちっちゃいんですけどね。マンションの一室みたいなところで。そこに池袋から通うように。毎日働いてたわけじゃないけど、だから渋谷に通うのが当たり前になっちゃって。渋谷にいることがもう生活、当たり前の風景になっちゃった。

——当時は何に惹かれて渋谷に居続けた?

山下  ソウルミュージックです。特にそのころは60、70年代のソウルミュージック。いわゆるレアグルーヴと呼ばれるものです。そのあたりからより顕著に、僕の中で渋谷度がアップした。当時は中古レコード屋がどんどん増えていく時期でもありました。

——最先端の音楽が手に入る場所が、当時の渋谷だった?

山下  うん。「ロンドンか渋谷か」と思ってましたね。

渋谷系と呼ばれて

——90年代初頭の日本で流行した「渋谷系」と呼ばれるジャンルがあります。ピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターを筆頭に、WACKもこのカテゴリだと言われていますが、山下さんはどう捉えているんでしょうか?

山下  センター街の奥の、今はドンキホーテになっているあたりにHMVがあったころ、邦楽部門のバイヤーに太田さんという方がいらっしゃったんですよ。僕もしょっちゅう一緒に飲んでましたけど。面白い人でね。その人がぽろっと言ったのが始まりだと思うんだよね。「渋谷系」って。

当時のHMV渋谷店には、小山田圭吾が主宰するトラットリアレーベルとかの音源をセレクトして売っている、太田さんのコーナーがあったんです。でも、それらをひっくるめて呼ぶ呼び名がない。「なんて呼べば良いだろうね」「たとえば渋谷系なんてどうかな」。その程度のことだったと思うよ。太田さんが「渋谷系」と言ったのは、おそらくその一回だけ。世の中ではその後、バンバン言われるようになったけど。

ちょうど僕が宇田川町に住み始めた94年の話です。もちろんピチカートファイヴにしてもフリッパーズギターにしても、それ以前から活動していたわけだけど。あらためて紹介したのは太田さんだったから。渋谷系というのは太田さんのものだったと僕は思ってる。

——太田系でもあった。

山下  太田系だよ、太田系! 太田さんはね、本当に面白い人だよ。ビートルズのクソマニアで。僕もビートルズが好きだったから、ずっとビートルズの話ばっかりしてた。

——HMVの店員さんと常連さんの関係性?

山下  そう、あとはただの友達。だってクラブでDJやってると毎回遊びに来るんだもん。

——遊び場が一緒。

山下  もちろん自然な市場調査になるのかもしれないけど、あの人は純粋に遊んでいたね。ジャミロクワイのライブに行ったって太田さんがいたしさ。当たり前のように遊んで、当たり前のように飲んでた。本当にただの友達。当時はみんなそういう考え方だったと思いますよ。小山田圭吾の後ろで演奏することになったのだってそう。クラブで遊んでいるうちに自然と知り合って「今度ソロでやるんだけど、ギターやってくれない?」「えっ?僕が?」って。

——飲んで、遊んで、そこから自然と新しい音楽が生まれていった。場所があることが大きかった?

山下  そうだよね。ピチカートのファースト「カップルズ」が86年。オリジナルラヴを初めて見たのは90年だったと思う。そういうのも全部渋谷で見てるんですよね。クアトロ(渋谷クラブクアトロ)で。フリッパーズギターのメジャーデビューライブもクアトロだった。90年の1月だったかな。コーネリアスの最初のライブもそう。クアトロの果たした役割は大きいと思いますよ。

できたのは88年。大学生のときから、何か見たいものがあるとクアトロでしたよ。ブランニューへビーズもクアトロでやってましたし。それこそ僕の大好きな、スモール・フェイセスのスティーヴ・マリオットも。チケットを買って楽しみに待っていたら、結局中止になって、来られなかったんだけど。そうしたらそのあと、火事で死んでしまってね。ともかく、クアトロには相当行ったと思いますよ。まあ、自分でも出るようになってしまったから不思議な感じですよね。

——新しい音楽を見る場所として、クアトロは大きな存在だった。

山下  あと、渋谷公園通りの一番上には、DJバー「インクスティック」という場所もありました。小林径さんがブッキングしてDJをプロデュース。そこでよくイベントがあったんです。

同郷の後輩にYOU THE ROCK★というラッパーがいてね。「前科一犯」の。ふふふ。あいつが中学を卒業したころから仲が良かったんですけど。いや、あいつは本物ですよ。「ラッパーになる」と言って東京に出てきて、本当になったからね。長野で一番ラップが好きだったのは間違いなくYOUだった。

——そこでYOUさんと遊んでいたんですか?

山下  YOUがインクスティックでバイトを始めたの。店員として働き始めた。それで「山下さんも来なよ」「すごいよ!」と言われて通うようになって。

——どうすごかった?

山下  スカパラがイベントをやるといえばあそこだったし、DJは藤原ヒロシに、橋本徹さん。小西康陽さんもやってた。インクスティックはそういう場所でした。だからそれもまた渋谷なんですよ。

YOUがバイトしていたおかげで、店にはタダで入れたし、酒もタダで飲めてね。それはもうひどい、無秩序な空間でしたよ。ははははは。フリーソウルのイベントをやったりね。パンパンに入れると600人入ったから、何杯酒を飲んでも汗をかいちゃって、まったく酔わないっていう。

消えた個人レコード店

——渋谷はレコードの街であり、クラブの街でもあった。

山下  そう、クラブもいっぱいあったよね。でも、当時もあって今もあるというクラブは、ほとんどないんじゃないかな。あったとしても、営業形態が変わっちゃってるし。

——街は変わってしまいましたか。

山下  特に駅周辺は大きく変わってしまったね。もう中古レコードの時代ではなくなってしまった。ディスクユニオンくらいしかないもん。こういうね、いい感じにちっちゃくやってる店も中にはあるんだろうけど。ねえ、チンタム。

北村  当時の渋谷は世界で一番レコードが集中している街でしたからね。個人店が多くて、そこに海外のレコード好きがこぞって買い付けに来てました。僕らも海外に買い付けに行くんだけど、向こうも日本に買い付けに来ていて。日本人は海外の人よりも細かいから、盤の程度がいいんですよ。そういういいものを求めて海外からもやって来ていた。でも、そういう個人店が2006年のリーマンショックで一気に消えて、ほぼなくなった。

BLOW UPの店主、DJ CHINTAMこと、北村圭士郎さん。数々のレコードショップでバイヤーを務めた経歴を持つ

山下  僕がバイトしていたのも個人店だったし。2002年くらいまでは店員をやってたのかなあ。でも(レコード店が消えたのは)世の中の音楽の聴き方が変わってきたせいでもあったのかもしれないね。

——レコードからCDへ?

山下  CDもあるだろうけど。足で稼ぐ情報が必要ではなくなってきたような気がする。

——インターネットの影響ですかね。

山下  も、あるのかもしれないね。たとえば楽器一個買うのでもさ、欲しいギターがあったら、ギター雑誌を舐めるように見たわけですよ。「これだ!」というものを手に入れるために、わざわざ町田まで行ったりね。レコードはそこまで情報が雑誌に載ることはないだろうけど、でもそれに近いノリだったんじゃないかな。お店にわざわざ「ありますか!?」って電話したりさ。今はもう、簡単になってしまったから。まめさは一緒なのかもしれないけど、検索してしまえば事足りるから。

——渋谷がレコードの集まる街だったとすると、音楽の聴き方が変わるというのは相当な出来事だったと推測します。

山下  うん、だと思う。前は店に行くことありき。行ってみたら、そこから何かあるに違いない、という考え方だったから。それが少し変わった。時代の温度なのかしら、とは思うけど。そう考えると個人店とか、面白いものがなくなっていくのは自然なことかもしれないね。

——どう感じてました?

山下  やっぱり寂しいよね。食い物屋にしたってそうですよ。僕は中華料理屋で飲むのが大好きだったんで。中華料理屋と言っても、個人でやっている何でもない、けどちゃんとおいしいみたいな店。住んでたからさ、そういう店に何の気なしに行って、飲むのが好きだったんです。でもなくなっちゃったね。ぜーんぶなくなっちゃった。服なんかも、ねえ。

北村  昔みたいに際立った店はだいぶ少なくなって。同じような格好のお店ばかりという印象ですよね。昔は「古着を買うなら、ここ!」というのがたくさんあってね。それが面白かったですよね。でももうほとんどない。ものすごく減ってると思う。

山下  古着の概念も変わったよね。下北沢の古着屋の増え方は異常だけど。あれは全然趣味に合わない。

北村  もう普通の古着って感じだよね。原宿とかに行くと80年代からある、ビンテージにこだわったお店がまだ踏ん張ってやってるんですけど、結局ちょっと博物館的になっちゃって。みんな「見にいく」みたいな感じがなのかなあ。やっぱり古着とレコードって、なんとなく感覚が似てると思うんですよね。買い付けの仕方もほぼ一緒で。欲しいものはみんなが集中して欲しがるから、古いものからどんどん減っていくし。

山下  そうだよね。昔は自分の目利きで、たまに掘り出し物を買えることがあったりとか。

北村  それもレコードと一緒ですよね。お店が間違って値付けしてしまったり。オリジナルを再発の値段で出して、激安だったりとか。そういう醍醐味がありましたよね、レコードも、古着も。

山下  僕も(そういう経験が)あるよ。リーバイスのサード。タグが取れちゃっててすごく小汚いんだけど、形がどう見てもサードなんだよ。それが3800円とかで出ていて。普通の人が見たらただの小汚いジージャン。「でも絶対サードだ!オリジナルだ!」って確信して買って帰ったの。家で洗ったらすごくかっこよくなって「ああ、やっぱり本物だ!」って。古着専門の、ちゃんとした店ではあるんだよ。きっと若くて、あまり知らない店員が値付けしたんだろうね。そういうことがあるから面白かったよね。

北村  僕らはネット時代に育っていないんで、やっぱり記憶力がね。知識を得ようとするっていうか。そこは今の若い人たちと違うのかもしれないですね。

——確かに固有名詞がどんどん出てくる。

山下  ふふふ。むちゃくちゃ忘れてるけどね。ただ、そういうのって自然にやる勉強じゃないですか。やっぱり勉強しますよ、好きだから。知るために勉強をする。勝手に覚えてしまうんですよ。音楽でもなんでもそう。まあ、学校の勉強もそんくらいだったらよかったんだけどさ。

——好きだから自然と知りたくなる。それに応えてくれる土壌が渋谷という街にはあった。

山下  そういうことです。

それでも渋谷は音楽の街

——いまだに渋谷には来ますか?

山下  用がないと来ないですねえ。知り合いの店で選曲を頼まれたりすると来るけど。やっぱり浦島太郎みたいな感覚はありますよ。わざわざ遊びに来るようなところが、もういくつかしかない。すごく縁遠い場所になってしまいました。でも、道は変わってないからね。「ここにあの店があったな」とか、思い出しながら歩いている感じです。

——一番何が変わった?

山下  でかい建物ができたことですね。駅前のでかい建物を見ると「ああ……」と思いますよ。やっぱり僕にとっては魅力的ではない。ただ、ああいうニーズもあるから。それはそれでいいんじゃないですか。僕がついていけていないだけだから。

——この連載は、かつての渋谷を彩った文化が今にどう残ってるかを探るのがテーマ。やはり変わってしまったということなのでしょうか。

山下  ここに残ってる。桜丘町のMeWeもそうじゃない? あそこも音楽のあるお店で。今はこういう形で、ちっちゃくいい感じでやられているのが渋谷だと僕は思いますね。

北村  そうかもしれないね。当時遊んでいた人が、音楽が好きで、自分でお店を始めるとか。そこにかつての仲間が集まる、というような。たぶん、それぞれが描いた自分の理想形なんじゃないかな。うちもレコード屋だけど、そこにレモンサワーが出てくるとか、前は煮込みもやったりとか、自分が欲しかった感覚をここでやってる。遊んでいた当時の記憶を元に、自分のやりたい仕事があれば、そこにはめていく。

MeWeもおそらくそうだよね。居酒屋スタイルで、DJも入って、ライブもやって。オーナーの伊達ちゃんの中で基準になるものがあって、発信しているわけで。で、みんながおいしい楽しいと言って行くわけだから。

——個人店に「音楽×何か」という形で当時の因子が残っていると。若い人も来る?

北村  来ますよ。だから、そういう若い人たちがうちに来て、どう感じとってくれるかですよね。彼らが30代40代になったときに、どうやって遊んでいるか。何かを吸収して、自分で新しく何かをやり始める人もいるかもしれないし。そうやって落下傘的に残っていくのかなあって思うんですよね。「なんとかイズム」じゃないですけど。

山下  だから変わったことを嘆くつもりはないっていうかさ。渋谷は渋谷じゃんって。そう思っていた方がいいよね。まあ、好きな焼き鳥屋もまだ残ってるしさ。

——渋谷の音楽シーンの変化はどう感じますか?

山下  基本は変わってないんじゃない? 細かいところは違うかもしれないけど。たとえば今は、70年代80年代の日本の音楽が掘り下げられているじゃない。昔はフォーカスされていなかったものも、どんどん広がっている。そう、だから広がってるんだよね、変わったんじゃなくて。派生して、どんどん広がって、その中からまたマニアックなものが生まれるってことなんじゃないかな。

そういう意味では、僕がハマったレアグルーヴっていう概念は、今もそのままなんだと思う。レアグルーヴっぽい感覚が一番ある街、それが日本においては渋谷だった。それは今も変わらない。そういうことなんじゃないですか。

credit: 執筆:鈴木陸夫 撮影:本永創太 編集:日向コイケ(Huuuu)

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